Sunday, May 07, 2006

「オレンジだけが果物じゃない」 (memo)

 「最後にお母さんと会ったのは、いつなの?」ある人がわたしにそうたずねた。都市をその人と一緒に歩いていたときのことだ。わたしは言い淀んだ。この都市では過去は文字通りのものなのだとばかり思っていた。”過ぎ去った”もの。なぜ無理やり思い出させられるのだろう。古い世界でだって、過去を帳消しにしてしまえば、誰でも別の人間に生まれ変わることができた。どうして新しい世界でえは、こうも詮索好きなのだろう?

 「帰ろうと思ったことはないの?」
 愚かな問いだ。もと来た道を引き返すための糸もあれば、こちらを引き戻そうとたくらむ糸もある。糸は意のままに心を振り向かせ、それを振り返ることなどとてもできない。帰ることなら、わたしはいつだって考えている。後ろを振り返ったためにロトの妻は塩の柱に変えられた。柱はものを支えるし、塩には清めの力があるけれども、それと引き換えに自分を失うのでは、あまりに割りが合わなさすぎる。
 
 故郷に帰った人間は、けっして無傷ではいられない、なぜなら、二つの現実のあいだで引き裂かれるから。これは堪えがたいことだ。心を塩漬けにしてしまうか、心を殺すか、それとも、どちらか一方の現実を選びとるか。選ぶには痛みがつきまとう。世の中には、食べないケーキは取っておけると思っている人もいる。でも取っておいたケーキは腐り、それを食べれば命取りになる。久しぶりに帰った故郷は、きっとあなたを狂わせる。残された人々は、あなたが変わったと認めたがらない。昔とそっくり同じにあなたを扱い、他人行儀(indifferent)だとあなたを責める。あなたは変わった(different)だけなのに。

 「最後にお母さんにあったのは、いつ?」
 何と答えればいいいのだろう。思いははっきりしているのに、頭の中で言葉は水底から上がってくるように歪んでいる。水面にぽかりと浮かんだ言葉を聞き取るには、よほど神経を研ぎすまさなければいけない。銀行強盗が金庫を開けるのに、カチリというかすかな音に耳をそばたてるように。



 ジャネット・ウィンターソン「オレンジだけが果物じゃない」”ルツ記”より抜粋

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