移転しました
こんばんは。ジン太です。
大学2年生から続けて来た「泥濘に住む男」、そしてこのブログですが、
このたび、移転しました。
【泥濘日記】
主として、ライターとしての活動日記で、日記的なものとか、文章の引用とかはなくなります。
でも、こっちのアカウントも残しておくので、気が向いたらこっちも更新するかもです。
読んでくれて、ありがとう。
泥濘より世界へ。 これはまだ便りをもらったことのない 友人への便りです 自然の言葉を まだ見ぬ手に委ねます どうか優しい皆さん 私を優しく裁いて下さい
こんばんは。ジン太です。
人生で嫌いなこと、避けて来たことの一つに、”他人になにか忠告をする”というのがあって、できるだけそれをなあなあで避けて来ていました。
自分の着る服は自分で選べるのに、「自分がどう生きるか」ということをあまりに他人任せにしていることがどうしても納得いかない。
いま最悪なのは、もはやわたしには遠い未来に希望はなく、ときめく心でなにかを待ち望むことがないということ。過ぎ去った年に失ったのは、運命についての感覚、信念ともいうべきもの。私が恋するひとりの人間として、また多くの作品を著した作家として、差し出さねば鳴らないものには価値がある……つまり愛や作品に結晶した、あらゆる心の戦いや苦痛には価値があるという信念だ。
犬にガブガブ噛み付かれる夢を見て、目が覚めた。ひさびさに怖い夢みちゃった、扉しめなきゃ(押入れの隙間が怖い)
間違えて海岸から拾って来た貝殻でしたが
「それで私も目が覚めたのよ」と母は言いながら煙草を一喫いした。「お婆ちゃんは悪い夢を見てたのよ」
ヴァレやHもそうだが、なぜUFOマニアというのは、この手の陰謀論に飛びつきたがるのだろうか? Hや他の信者たちの話を聞いているうち、私には何となく理由が分かってきた。
それはけっこうなお話ですね。でもとりあえずいまは、どうやってここから出られるんですか? と私は訊ねました。いやそりゃ駄目さ、と相手は首を振り振り答えました。もう船の入港は禁止されたんだよ。入港してこなきゃ、出港する船だってなかろう。じゃ飛行機は? と私は訊きました。飛行機って何だね? と相手はとまどったような笑みを浮かべて言いました。まるで私が何かジョークを言って、それが理解できなかったみたいな表情でした。飛行機ですよ、と私は言いました。空を飛ぶ、人を運ぶ機械ですよ。馬鹿馬鹿しい、と相手は疑り深そうに私を見ながら言いました。そんなものありゃしないよ、無理に決まってる。覚えてないんですか? と私は訊きました。何の話だかさっぱりわからんね、と相手は答えました。君、そんなたわけた話を言いふらしてるとロクな目に遭わんぞ。物語をデッチ上げる連中を政府は好まんのだよ。士気に響くからね。
だから自棄を起こしても仕方ありません。どんなに条件がよくても、物忘れは誰にでも起きることです。ましてやこんな、現実にいろんな物が世界から消滅してしまう所では、どれだけ多くのことが刻々忘れられていくかは推して知るべしです。つきつめて言えば、問題は、人がものを忘れるのではなく、みんながつねに同じものを忘れるとは限らないということです。一人の人間のなかでいまなお記憶として存在しているものが、別の一人にあっては取り返しようもなく失われている。これはさまざまな困難を生み出します。相互の理解を妨げる、超え難い障壁を作り上げます。飛行機とは何かがわからない人に、どうやって飛行機の話ができるでしょう? それは緩慢な、しかし不可避の消滅過程です。言葉は物よりも少し長く生き延びますが、やがては言葉も、それがかつて喚起したイメージとともに色あせていきます。一つのカテゴリーがまるごと消えてしまうことも珍しくありません。たとえば、植木鉢。煙草のフィルター、輪ゴム。しばらくのあいだは、それらの言葉を聞けば、たとえそれが何を意味するのかは思い出せなくても、ひとまず言葉として認識することができます。けれどやがて、言葉はだんだん単なる音と化していきます。声門音と摩擦音の無根拠な集まり、音素の渦巻く嵐となって、ついには訳のわからぬたわごとに堕してしまうのです。「ウエキバチ」という言葉は「スプランディーゴ」という言葉と同じくらい無意味なものになり果てます。脳はそれを聞いても、理解不能な何かとして、知らない外国語の単語として認知するばかりです。こうして、外国語にしか聞こえない単語が身のまわりでどんどん増殖していくにつれて、会話も次第に困難になっていきます。実際、いまや一人ひとりが自分個人の言葉を話しているのです。共通理解の領域が減っていくにつれて、他人と意志を交わすことはますます難しくなっていきます。
いつも不思議に思うこと。「なぜ『探す』のだろう?」という疑問。そして、「いつそれを『見つける』のだろう?」
今日も仕事を終えると少し遠廻りして白壁の土蔵のつづく道を歩き、掘割に出た。
あのとき自分がどんなやり方で、純粋にして熱烈な愛を彼女に伝えたのか、もう今は思い出せない。今どころか、その直後にもうぼやけて、夜になって思い出そうとしても断片しか残っていなかった。その断片すら、同棲1、2ヶ月後には跡形もなく消えてしまった。ただ覚えているのは、事前の十数日間、自分のとるべき態度をつぶさに研究し、発言の順序を立て、万一拒絶されたときの措置まで考えたことだ。だがその場に臨んではどれも役に立たず、すっかりあがって、我知らず映画で見たようにやってしまった。あとで思い出すたびに顔がほてるが、意地悪いことに、それだけがいつまでも記憶に残っていて、今でも暗室の豆ランプのようにその光景を照らし出すーーー私が涙を浮かべて彼女の手を取り、片膝をついて…
自意識が強いんだか低いんだか分からない、こんな性格と生活を生きているので、幸せだったと思えばそう思うし、不幸だったと思えばそう思ってしまう。そんな毎日だ。将来に対する希望も不安もそれなりにある。絶えずアップダウンを繰り返してもいる。けれど、いま死んだとしたら、「いろいろあったし、使われなかったものもたくさんあったかもしれないけど、大切な人にたくさん会えて良かった。」と、最後にカードを「幸せ」にひっくり返して死ねるんじゃないか… と思っている。それは、僕の最後のセーフティネットだ。生きるために積み上げて来たつもりの思い出は果たして、死ぬ時まで僕を救ってくれるだろう。死ぬまでは生きているんだから。
ぼくはあなたを感激させるために、 あなたの目を世界に開かせるために、 自分が飛び越えてきた死の危険を物語ったものだ。 あなたはおっしゃった、ぼくがいつになっても少しも変わらないと。 子供の頃から、ぼくはシャツによく穴を開けたものだと。 ああ!なんと不幸なことだろう! ちがいますよ、ちがいますよ、 ぼくが今度帰ってきたのは、庭の奥からではありませんよ、 僕は世界の果てから帰ってきたのですよ、 それでぼくは苦い孤独の匂いを、 熱の砂嵐の渦巻きを、 熱帯地方の目覚めるばかり美しい月影を、 身に染み込ませて帰ってきたんですよ! するとあなたはおっしゃるのだった、 とかく男の子というものは、 駆けずり回ったり、難儀をしたりすることで、 自分を強いと思っているものなのですよ、と、こう。 違いますよ、違いますよ、老嬢よ、 僕は裏庭よりももっと遠いところを見てきました! 裏庭の藪かげなんか、物の数ではないですよ! あんなものなんか、 あちらの砂漠や岩山や処女林や大沼に比べたら、物の数にも入りはしません。 あなた知っていますか、 人と人が出会うと、 いきなり鉄砲を向け合う土地がこの世にあると? あなた知っていますか、 凍りつくほど寒い晩、屋根もなければ、老嬢よ、 ベットもなければシーツもなしで 眠らなければならないような砂漠が存在するということだけでも…。 すると、あなたは叫んでこうおっしゃるのでした。
夕食のおかずを買いに、近所のスーパーまで歩く。スーパーの隣にある花屋の前で立ち止まって、「あの紫色の花、なんだろう」と、僕に尋ねるのと独り言の中間のような声が隣でした。なんだろうね、と行って花に歩み寄る。 あれはフリージアだよ。…いや、ごめん、違った。スターチスだ。小さくて、乾いた花だよ。「最近花が気になってね。色が綺麗だし。あんな紫色で。枯れちゃうのに。」
最近、不思議に思う。毎日出会うたくさんの人たちの中で、すごく仲が良くなる人がいるのはなんでだろう。
占ってもらう。ホロスコープと四柱推命と数秘術とタロットの複合で占ってもらった。 ちょっとタロットとかホロスコープとかかじってるので、いろいろ教えてもらおう、と思ったんだけど、やっぱりよくわからないのでだまって聞くことにした。
初夢だった気がする。地下鉄で、正月くらいに見た夢を思い出していた。
当時、まだ一度も命名されていなかったある感受性が世間には存在していました。存在しているのにまだ誰も気づいていないことを、つまりそれについて書くというかたちで、注視されていないことを凝視するには良い機会だと思いました。でも、それは私のなかに存在する感性というわけではありませんでした。まさにその点がつねに混乱のもとなのではないでしょうか。私にとってより近く感じられるヨーロッパの文学の伝統と比べると、日本においてはこの混乱がより著しいように感じます。つまり、書くということは何らかの意味で自伝的である、あるいは、その人の観点、生活、物語を反映している、という考え方。人によってはそうかもしれませんが、私の場合は違います。自分自身に大してより、世界に対してずっと大きな興味があります。もっと言えば、自分にはそれほど興味がなく、書くものもとくに自伝的というわけではない。むしろ自分自身とは何の関わりもないことでも本当に大切だと感じ、興味をかきたてられる主題、あるいは、そのことについて誰も言っていない独自の発言がある主題について、そうとう力を入れて著述する能力はあると自負しています。自分について語ることには、何かふしだらな感じを抱いてしまうのです。いままさに自分がそうしていることはわかっていますので、逆説的ですが、ここでは一人称で語るべきだと思うのです。そうでなければ不遜であり、醜悪だと。