それを聴くのは誰だらう?
先日、友人Mと新宿を歩いていたら偶然に某カントクさんと出会い、ああきみたち友達だったんだ。へー!いま中原中也のやってるんだけど、中原中也知ってる?あ、僕中原中也好きです。ていうかちょっと昔の日本の近代詩がすごく好きなんです。どれが好き?ええとあんまり有名なやつじゃなくて、すごく好きな詩があるんですけど、タイトルは羊…だったかも。今は思い出せない。喉まで出かかってるんですけど、思い出せない。中原中也の詩じゃなくて、他の詩人のエッセイで紹介されていたと思うんです。で、結局そのときは思い出せなくて、家に帰って来て本棚の中から石垣りんのエッセイ「焔に手をかざして」を引っ張りだして、探し出した詩。
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子守唄よ
母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
然しその声は、どうなるのだらう?
たしかにその声は、海越えてゆくだらう?
暗い海を、船もゐる夜の海を
そして、その声を聴届けるのは誰だらう?
それは誰か、ゐるにはゐると思ふけれど
しかしその声は、途中で消えはしないだらうか?
たとえ浪は荒くはなくともたとえ風はひどくはなくとも
その声は、途中で消えはしないだらうか?
母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だらう?
淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だらう?
(中原中也詩集より)
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思うことは、全部言葉にもできない。そもそもその「思い」がまだ言葉にできない、感覚もできないが、体でたしかに感じているもの。たとえばある土地に言ったときに感じる空気のようなもの。人の目を見ると感じること。奥歯に肉が挟まって気持ち悪いとは言えるけど、その「気持ち悪さ」は伝えることができないようなもの。経験。なにかが誕生。そして無言。思考。しかるべく後に発言。もしくは再度潜伏。思考思考経験。カイツブリが水中の泥を掬って世界を想像した神話になぞらえる。
例によって、この「詩」の発見がどういう意味の「言葉」なのかはまだわからないが、ものすごく偶然に、この新宿で僕の記憶から、その奥のもっと深い海から蘇って来た詩人の心のような気がしたので、ここに書いておく。
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