Tuesday, July 04, 2006

人の顔

 友人に招かれて、友人の家で飯を喰べた。僕の知ってる人が何人かいた。友人が最近仲良くなった人らしい、初対面の人も一人いた。
 その人が、数ヶ月前の友人の写真を見て、「この写真のお前は、目が死んでる」と言った。そんなこと僕は気がつかなかった。その写真は何回も見てるし、友人とはそれなりに長い付き合いだと思ってたのに。「このころは辛くてね」と友人は初めて漏らした。
 友人はいつも笑顔で写真に写っている。友人にも辛いことがあったのに。
 友人の、自分の辛さを人前に出さない強さに対する驚きと、僕はそれを汲むことができずにいたと後悔と、それに気がつくことができた初対面の人に対する羨望を同時に感じた。

 僕は最近、会う人に顔が変わったと言われる。はてどうだろうと鏡を覗き込む。

 君の方が顔が変わったよと言う。そんなことない、と君はいう。自分の顔のことはなかなか気がつかないらしい。僕としては、僕がこの街で初めて君に出会った時に比べて、君はあきらかに顔が変わったと思うのだ。優しさも辛さも同じだけ均衡を保っている、というか。なんというか、ここで生きる男の顔。ほどよくおとなびた、僕が好きな顔だ。
 
 さて僕の顔はというと、たしかに変わったと思う。でもどうだろう。君の目に僕はどう変わったのだろうか。
 頬骨が上がったとか、あごが引っ込んだ、とか、目が腫れぼったくなったとか、日に焼けたとか、そういうひとつひとつ言葉にして確認できる変化なのだろうか。それとも関係が変わったからかもしれないし、変わったのは僕ではなくて君のほうかも知れない。

 自分の所有物なのに、自分では確認することができない。鏡を見てもそれが「人に見せる顔」とは限らない。相手が見る顔。自分がそう思う顔。自分が作る顔。顔って何だろう。いつ、どこで君は顔を曇らせた?君はいつ顔が変わった?僕の顔はいつのまにかこうなった?僕はそれに気がついた? 

 遺伝だろうか?
 鏡の中には、25才の坊主ヒゲ面の、ゆるんだいつもの顔の僕がこっちを見てるのだが、このあか抜けない狸顔の中に いま50才の父親の面影も、僕を生んだ25才の父親の姿まだ見ることもできず途方にくれてしまう。この鏡の中の顔は幼い。人生を豊かにたたえた父、あなたの25才の顔より幼い。これから先、子どもを作らないであろう自分は、父に追いつけない、子どもの顔でこのまま年を取るのだろうか。そして父親にどんな顔を見せるのだろう。


 ちゃんと人と向き合おうと思う。人と積極的に関わりたい。そしてちゃんと顔を見る。どんな目をしているのか。どんな肌で、その唇はどんなふうに動くのか、何を語ろうとしているのか、ということ。そして、できれば良い顔で生きていけるよう。笑ったり、泣いたり怒ったして、顔がどう変わっていくのか、覚えていたい。

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