Monday, October 30, 2006

ザ・ワールド・イズ・ユアーズ (メモ)

 当時、まだ一度も命名されていなかったある感受性が世間には存在していました。存在しているのにまだ誰も気づいていないことを、つまりそれについて書くというかたちで、注視されていないことを凝視するには良い機会だと思いました。でも、それは私のなかに存在する感性というわけではありませんでした。まさにその点がつねに混乱のもとなのではないでしょうか。私にとってより近く感じられるヨーロッパの文学の伝統と比べると、日本においてはこの混乱がより著しいように感じます。つまり、書くということは何らかの意味で自伝的である、あるいは、その人の観点、生活、物語を反映している、という考え方。人によってはそうかもしれませんが、私の場合は違います。自分自身に大してより、世界に対してずっと大きな興味があります。もっと言えば、自分にはそれほど興味がなく、書くものもとくに自伝的というわけではない。むしろ自分自身とは何の関わりもないことでも本当に大切だと感じ、興味をかきたてられる主題、あるいは、そのことについて誰も言っていない独自の発言がある主題について、そうとう力を入れて著述する能力はあると自負しています。自分について語ることには、何かふしだらな感じを抱いてしまうのです。いままさに自分がそうしていることはわかっていますので、逆説的ですが、ここでは一人称で語るべきだと思うのです。そうでなければ不遜であり、醜悪だと。
 実際、このような場でも一人称で語らないで、三人称で自分に付いて話す何人かの作家に出会ったことがあります、私もそれができないわけではありませんが、彼らほどひどくはありません。いや、まったくそうではありません。ですから、主張をするときは、「私」と言って語る。正直に誠意を持って参加するにはそれしかありません。でも、「私」で語っても、内容は私のことではないのです。膨大な量の人間の現実に接しているというのは作家の特権でしょう。できるかぎり多くの人間の現実に接していたいと思いますが、世界で起こっていることに踵を接していようという試みのなかで、自分はごく小さなきっかけに過ぎないと思います。安寧でない状態、居心地の悪さというものに、身を浸してもかまわないという考え方を私は信奉しています。安寧は人を孤立させます。自分だけの生活を営み、適度にうまくやり、習慣にひたり…そのうちに、外の世界のほどんどの人に何が起きているか、それを知るきっかけを見失ってしまいます。ですから私はしょちゅう旅をしています。世界は「私」でないものごとで溢れていることをつねに忘れないように。世界は「私」のためにあるのではないのだ、ということを忘れないために。

 スーザン・ソンダク「良心の領界」より

1 Comments:

At 4:39 PM, Anonymous Anonymous said...

スーザン・ソンタグ”The Volcano Lovers”は彼女自身の名づけようがない感受性に呼応する「感性」であったのでしょうか…。重要な示唆となりました。ほんたうにありがたう。
東京もドイツもカナダもロシアもだいぶ冷えを感じる季節です。どうか、パートナーさんご家族さんともどもご自愛下さい.

 

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