人間らしさ
昔読んだ話をふと思い出す。
死にゆく友人のために書かれたエッセイの連作のひとつだったと思う。
・・・死にゆく目の前の人間に対して、私はたまに枕の位置をかえるくらいしかできない。そうすることで、自然に対してほんのちょっぴりだけ、死期を早めてもらうよう配慮してもらう・・・・
という話だったと思う。いや、「ちょっぴりだけ、死期をのばそうと抵抗する」どっちだっけ?思い出せない。そもそもこの2つ(早めてもらうこと・抵抗すること)は、どっちも同じ気がする。死を与える自然に対して、人間の存在は圧倒的に無力であるという1つの点においては。
けれども、この話で語られているような、枕の位置をちょっと変えるだけの無力であるささやかな動作が、胸を打つのはなぜだろう?
合理性で割り切れない人間の行動に、本当の人間らしさが現れているように思う。
人間がひとり、一生分で与えられる優しさは、かぎりなく大きいと思い込んでいる。それは地球を救うくらい大きく、なんでもできると思っている。けれど、正直ぴんとこない。ひょっとしたら、そんなに大きくなくてもいいかもしれない。いや、大きさは関係なくて、僕たちが日々行っている、ささやかな人間らしさの積み重ねが、気がつかないだけで、たとえようもないくらい深く、優しいものだと思う。
僕は、他人に対して、優しくできなかったと後悔することばかりだ。どれだけの人を傷つけてたかと思うと、生きるのがしんどくなる。
それなのに、いつもたくさんの人に認められたいと思う。黒い感情にいつも心は捕らわれる。欲望疑惑羨望嫉妬破壊自己憐憫。また、生きるのがしんどくなる。
でも、もう大丈夫だ。本当に大切なものがなにかわかった。
枕の位置を変えるだけのちっぽけな行為。人間には、合理的では割り切れない、優しくて美しいものが確かにある。
見過ごさないで。割り切らないで。この小さい声を聞いて。そして、誰かにまた受け渡さなくては。
心配しなくていい。優しさはたしかに降り積もる。僕たちは優しさの天才で、たいていそれに気がついていない。
心配しなくていい。見えない優しさでこの世界は動いているから。生きるということは、この力を誰かに受け渡すこと。
まだ見ぬ友達と、子どもだった僕へ。泥濘からの便りでした。
0 Comments:
Post a Comment
<< Home