Friday, June 29, 2007

自然と愛と孤独と (メモ)

 間違えて海岸から拾って来た貝殻でしたが
 それでも 大事にとっておきました
 何年も何年も経って
 思いがけず 内に真珠を持ちました。
 
 どうしてこんなにあとになって ーーー私はつぶやきました
 あなたの必要はもうなくなったのにーーー

 真珠は答えました ですけれど
 私の時間は いまから始まるのです

 「エミリ・ディキンスン詩集 続々自然と愛と孤独と」より

Tuesday, June 19, 2007

暗闇からの叫び (メモ)

 「それで私も目が覚めたのよ」と母は言いながら煙草を一喫いした。「お婆ちゃんは悪い夢を見てたのよ」

 私にもそれが聞こえたのだろうか、私もそれで目が覚めたのだろうか。「何の夢だったか言ってた?」と私は聞いた。

 母は煙を吐いて、首を横に振った。言わなかった、という意味なのか、その話はしたくない、という意味なのか。

 何年ものあいだ、母は私を悪い夢から起こしてくれたが、あとになって私たちはそのことを一度も話題にしなかった。母が起こしてくれて、抱きかかえて、ただの夢よ、もう大丈夫よ、終わったのよと言ってくれたのを私は覚えている。すごく小さかったころのはどんな夢だったか訊かれた覚えもあるけれど、そのうちに母はもう訊かなくなった。「ただの夢よ」と母は私に言うのだった。「ただの夢よ、もう終わったのよ」と。

 何年か経って、今度は私が、悪い夢を見ている母を起こしてやるようになった。もしかしたら何年も前からそうだったかもしれないが、中学生のときに私は初めて、眠っている最中に母が叫び声を上げることに気がついた。父はもう出て行ったあとだったし、兄と姉も大学に上がって家を離れていた。母と私は小さなアパートメントに引っ越した。母の部屋は私の部屋から廊下をはさんで向かいに合った。母が叫ぶのが聞こえると、私はベットから飛び出し廊下を超えて母のもとに飛んでいき、部屋の灯りを点けて母を抱きかかえ、「もう終わったのよ、ただの夢よ、終わったのよ、もう」と言った。母の目は恐怖にぎらぎら光り、顔には斑点が浮かんでいた。そこにいるのが、何のことはない、私だと気付くと、母は自分の怯えをごまかそうとした。水を一杯持って来てくれないかしら、と母は私に頼み、私も言われたとおりにした。戻って来て、しばらくそばにいてあげようとしても、母はそうさせてくれなかった。そういう姿を私に見せたくなかったのだ。怖がってる姿を見せたくなかったのだ。

 だからその夜、自分の母親の家で、母が私に「あたしたちとおんなじ声出すのね」と言ったときも、何のことを言ってるのか私にはわかった。その声は、傷付けられた生き物の叫びだった。怖くて言葉のでない生き物の叫びだった。

 「暗闇が怖い」 レベッカ・ブラウン「若かった日々」より

Saturday, June 09, 2007

神による陰謀説 (メモ)

 ヴァレやHもそうだが、なぜUFOマニアというのは、この手の陰謀論に飛びつきたがるのだろうか? Hや他の信者たちの話を聞いているうち、私には何となく理由が分かってきた。

 彼らは「真実」を求めているのだ。UFOの謎に頭を悩ませ、単純明快な理論ですべてを説明することを夢見ているのだ。「誰かが真実を隠している」「誰かが我々を騙している」という説は、安直であるがゆえにアピールしやすい。隠されている真実さえ明らかになれば、すべては単純明快であったことが判明するだろう……。

 陰謀説というのは宗教に似ているーー私はふと、そう気がついた。

 この世は混乱に満ちている。多くの悲しむべき出来事、不条理な出来事が常に起きている。戦争、災害、不景気、伝染病……そこには何の秩序も基準も見当たらない。どんなに正直に慎ましく暮らしていても、天災であっさり死ぬことがある。悪人が罰を受けることなくのさばることがある。人の生や死というのもには、結局のところ、意味などない。

 しかし、多くの人はそれに納得しない。自分たちの生には何か意味があると信じたがる。この世で起きることもすべて、意味があると考えたがる。偶然などというものはありえない。どんな事件にもすべてシナリオがあるーー誰かが仕組んだことなのだ、と。

 阪神大震災が起きたとき、オウム真理教は「地震兵器による攻撃だ」と主張した。そのオウム真理教は、一部の陰謀論者に言わせれば、フリーメイソンや北朝鮮の陰謀なのだそうだ。一九九六年にO-157が流行した時も、二〇〇五年にインフルエンザが流行した時も、やはり陰謀説を唱える者が現れた。こうした説は決して近年の流行ではない。十四世紀にフランスでペストが流行した時、「ユダヤ人が井戸に毒を流しているからだ」という噂が流れ、大勢のユダヤ人が殺された。一九八三年、長崎にコレラが流行した時も、「イギリス人が井戸に毒を流している」という噂が広まった。一九九五年、エボラ出血熱が流行したザイールでも、「医者が毒をばらまいている」という噂が流れた。時代や民族を問わず、人は大きな災害に接すると、「誰かのせいだ」と考えたがるらしい。

 考えてみれば、ノアの洪水の伝説も、そうして生まれたのではないだろうか。昔の人にとって、自分たちの住む地域が「全世界」であったろう。自分たちの住む地域に洪水が起きた時、「全世界が洪水に見舞われた」と思い込んでいただろう。生き残った人たちは考えた。なぜこんな悲惨なことが起きたのか。誰が何のために私たちの隣人を殺したのか……彼らはその不条理な悲劇を合理的に説明するため、物語を作り上げたのだろう。「死んだのはみんな悪い人たちで、神は彼らを罰するために洪水を起こしたのだ」と。

 そう、宗教とは「神による陰謀説」なのだ。災厄を起こした者の正体が人であれば陰謀説になり、神になれば宗教になる。それだけの違いだ。

 そう考えれば、カルトを盲信する者がしばしば陰謀説を唱える理由も説明がつく。神を信じる心理、陰謀を信じる心理は、結局のところ同じメカニズムによるものだからだーーすべてにきっと意味があると考えたがる心理。

「神は沈黙せず」山本弘 より