Monday, May 29, 2006

絶景(diary)

 一日中、横浜のベイブリッジが見える公園で、イベント会場を撤収するお仕事。そういえば、ベイブリッジをレインボーブリッジだと思っていたなあ。oioiもマルイって読めなかったなあ、あのころよく遊んだあの人元気かな、暑いな、腹減ったな・・・などど、とりとめもなく思いながら一日中ただひたすら作業、作業、また作業なわけである。体を動かすのは好きだ。不思議と充実して思ったより楽しかった。ガテンのお兄ちゃんたちもかっこよかったし、休憩も2時間に20分くらいはとれた。仕事上がりで早速飲んだビール(発泡酒)がうまかった。しばらく筋肉痛はとれなかったけど。

 水を張った棚田が一望できる、丘にひとり座った自分を想像した。夕日が棚田に映っている。その陽もやがて沈んでいって、辺りが徐々に薄暗くなっていき、下弦の月が明るく輝いて行く。田んぼに写る月を探す。あれはいつ見た風景だったか・・・それともただの想像だっただろうか。

 東京に大雨が降って、うっかり原付で都心に出てきてしまったので、仕方なく雨に降られて帰る道すがら空を二つに分けるような稲光を見た。ああこりゃひさびさにいいもんみたわ。かみなりさま。後で小田急線が落雷で運休になってたことを知った。

 妹はプレゼントを用意しててくれた。僕の誕生日を忘れてると思ってがっかりして、嫌み言った自分を恥じた。「ホントはすぐに渡したかったけど、(プレゼントを用意していない)姉ちゃんが気を使うと思って・・・」と妹。姉より僕に気を使かってほしい。でもうれしかった。

Thursday, May 25, 2006

バスに乗るのはもうやめた

「バスに乗れない夢」
 昔よく見てた夢。今はもう見なくなった。でも今でもよく思い出す夢。

 雨が降ってるのか夕暮れかなんかで、辺りは薄暗い。僕はバス停でバスを待っている。バスが到着する。バスの中はとても温かく、明るい。周りの暗さがそのバスの中の明るさを引き立てている。バスには僕の友達が乗ってて、楽しそうに話をしている。目の前でドアが開く。僕はあと少しで、あと一歩出せばバスに乗り込めるというのに、バスに乗ろうとしない。というか乗れない。悲しくて寂しくて目が覚める。


 それから少したって僕も年を取ると、バスに乗れない夢を見ていた昔の僕に、バスに乗れるよって言ってた。もう乗れるよ。心配しなくても、これに乗れるんだよ。誰も傷つけないよ。

 でも、最近は「別にバスに乗らなくてもいいじゃん」って思う。バスに乗っても、歩いても目的地には着くのだし、少しくらい遅れても、雨に濡れても、一緒に歩く人がいなくてもそれでいいと思うのだ。虹も出るかもしれないし、他に楽しいこと探せばいい。

 嫌われるのも嫌うのも平気になって、まあたまにはへこんだりするんだけど、バスに乗れないくらいで道がなくなったわけじゃない。歩いて行こう。それとも走る?タクシー捕まえる?

 もういちど「バスに乗れない夢」を見ないもんかな。そしたら「バスに乗らないで歩いていく夢」にするのに。

Monday, May 22, 2006

桐生祐狩先生オフ会と夕立(diary)

 18日に、25になったのでした。まさか無職で迎えるとは・・・・

 ちょうど、家には姉と妹がいて、サプライズをほのかに期待してたけど、なんにもなかった。いいかげん大人なんだから、自分の誕生日を祝ってくれないからって悲しむのは筋違いだけど、なんだろう。この釈然としない気持ち。姉妹から結婚祝いもらえないんだから、誕生日くらい祝ってくれてもいいと思う。物質で。

 さて、誕生日の次の日の19日(金)桐生祐狩コミュのオフ会に参加。
 参加したいきさつは、SOSUKEさんから桐生祐狩の「川を覆う闇」がとにかくおもしろい、と紹介され、その2時間後には買って、次の日には読み終わって、参加を決めた。すごくおもしろい。なんていったらいいのかよくわからない、言葉にできないけど、浄神と不浄神の二対神の倫理観や、川にいる「世界穢」というものすごく気持ち悪い生き物の描写が限りなくグロく、最高。「夏の滴」も面白かったー
 オフ会は、居酒屋でうんこだの痔だのウォッシュレットだの会話が飛び出して圧倒された。主催者の人が気を配ってくれたし、他の参加者も変わってたし、なにより著者自身が参加(!)していたり、すんげえオフ会だった。
 いままで、「mixiで会った友達を強制的に集めて飲み会、友達同士は面識がまったくない」というのを企画したことがあるけど、集めたわりに自分から会話ふったりとかしないのを反省して、盛り上げなくちゃなーと思った。こういうところでは、会話が全てだと実感した。それと雰囲気作り。

 次の日、20日(土)は、友人にお誘いいただいて、パン部に参加。久しぶりに晴れて暑い日で、むしむししてた。吉祥寺のパンはなかなかおいしかった。カ◯ネベーカリーの奥さんは愛想が悪いという話とか、ベーグルの発酵の話とか。友達と別れて、恋人とあってたら夕立にあった。部屋に帰ると、干してた布団がぐっしょりしてて笑えた。夕飯のクスクスを戻しすぎて、鍋いっぱいになった。水を吸うことを計算に入れないとね。

Wednesday, May 17, 2006

終わりの始まり (dream)

 今朝みた夢。

 目的地にいかなくちゃいけなくて、そこに行こうとするんだけど、自転車についてる地図を読むことはできなくて、気がついたら採石場みたいな場所にいた。そこでは、自衛隊の練習生みたいな人たちが訓練していて、どうやら向こうでは銃を撃ったり実践練習をしているらしい。行こうと思ってた目的地とはまったく正反対のところに来たことに途方にくれて、さてどうしよう、と思っていると、そこにエレベーターがある。それに乗れば、目的地まで自動で行けるので、乗り込んだ。僕の他に5人くらいいた。エレベーターは、「チョコレート工場の秘密」に出てくるそれそのもので、ガラス張りで、ボタンがたくさんついてて、上下だけじゃなくて、目的地まで一気に移動できるもの。目的地はどこだろう、とドアの上に掛かっている路線図を見ていると、どうやら目的地は途中で乗り換えなくてはいけないみたいだ。エレベーターが動き出す。ぐおん。重力を受けて、腹の底にほんの少し違和感を感じる。でも何度やっても、いくら待ってても、目的地にはたどり着けない。上に行こうと思って、下行きのエレベーターに乗ったみたい。それともボタンを押し忘れた?乗り間違えた?いつのまにか、乗客は僕一人になってて、終点で降りたところはまたさっきと同じ採石場で、そこで自衛隊の訓練生が体育の時間みたいに並んで、ペナルティを受けてみんなで罰を受けているのを見ている。遅刻30秒・腕立て30回 忘れ物1回・腹筋100回。訓練生は、やる気あるのかないのか、ぐでぐでしていて、喜んでいるように見えなくもない。僕はなんでこんなところにいるんだろう・・・・で目が覚める。

Friday, May 12, 2006

スターチス


 母が来たときに買っておいたスターチスが、まだウィルキンソンのジンジャーエールの花瓶に挿してある。

 はじめは水を入れて挿していたが、これはドライフラワーになると母がいうので、水を抜いて、そのままにしておいた。
 
 そうすると。 いつのまにかスターチスはドライフラワーになった。枯れて色が褪せたが、まだ色がある。つやと感触、そういうものはなくなった。とたんに抜け殻みたいに感じてしまうのはなんでだろう。枯れてしまったから。不思議でたまらない。水分がないとか、そういうだけじゃなくて、なにかが、もうない。

 裏庭の柿の木を、毎日窓から眺めるのが楽しい。
 日に日に大きくなって、みどりを濃くしていく葉を見ていると、僕はちゃんとここにいるってことがわかる。過去とは悔やむべきものではなく、未来は恐れるべきものではない。いま自分がいるこの場所この時間は、作ってきた時間の結果なのだ。それがすごいことで、祝福されている。木や花を見ていると、時間は確かに流れているのだな、とわかる。

 「あの植物のように〜生きたい」とは、宮沢賢治は言っていない。(たぶん)
 植物は植物。人間と流れる時間が違う。人間の理屈は、植物には通用しない。
 だから、人間のことばでしか、植物から得たことや美しさを、伝えることができないのがもどかしい。
 きれいだよ。っていうのがあなたでなければ。私は花を知らずに生きてきた。花はずっと咲いていたのだけれど。
 にんげんの言葉でしか、スターチス、あなたをほめられないのだろうか。

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  さくらの つぼみが
  ふくらんできた
  と おもっているうちに
  もう まんかいに なっている
  きれいだなあ
  きれいだなあ
  と おもっているうちに
  もう ちりつくしてしまう
  まいねんの ことだけれど
  また おもう
  いちどでも いい
  ほめてあげられたらなあ…と
  さくらの ことばで
  さくらに そのまんかいを…
 
「さくら」 まど・みちお 『まどみちお詩集』より
 
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Wednesday, May 10, 2006

アリアドネの糸と魔法の剣

 アリアドネは、迷宮の女主人。ミノタウロスの迷宮の番人であり囚われ人だった。ミノタウロスへの生贄に選ばれた、テウセスを一目見るなり恋に落ちてしまった。

 「テウセス。私の鎖を断ち切って。あの怪物を殺して。私の母がポセイドンの贈った牡牛と交わって産まれたあの怪物を。一度に七人の人間を丸呑みにするあの怪物を」

 ミノタウロスの迷宮は深く、一度足を踏み入れると二度と出ることは適わない。暗闇の迷宮で、出口を求めて永遠にさまよい続け、力つきて膝をついたところで、ミノタウロスに頭から食われる運命だった。

 アリアドネは、テウセスに魔法の剣と玉糸を渡した。
 「あなたを待っていました。私をこの迷宮から助け出してくれるひと。これをあなたにお渡しします。この玉糸を、入り口の扉に結び付けるのです。糸を辿れば、あなたは入り口へ戻ってくることができるわ。」

 テウセスは、まっすぐ迷宮の奥へと進み、眠っているミノタウロスを見つけた。その寝息は、地獄を千の竜が暴れ回っているように恐ろしい。魔法の剣を抜き、首を狙って振り下ろす。ミノタウロスの首がバターを切るように離れた。残ったものは、人の胴体と、牛の首。その二つがさっきまで一つの生き物とは信じられない。テウセスはほんの一瞬、人間の頭と牛の胴体を探した。勝利の証に、首を持ち帰ろうとミノタウロスの首を掴んだが、あまりにも重くて、そこへうっちゃったままにしておいた。この選択は正しかった。ミノタウロスの顔を見た者で、生きている者はいなかったから、気の荒い牛を仕留めたようにしか見られないところであった。

 そして、アリアドネの糸を辿って、迷宮を脱出したのだった。

 アリアドネは、一つ間違いを犯した。魔法の剣の使い方を説明するのを忘れていたのだ。魔法の剣は、アリアドネの鎖を断ち切るはずだった。しかし、一度血塗られ、再び鞘に納めると、それは二度とぬけることなく、魔力は失われてしまう。

 アリアドネは迷宮からでることはできず、勇者テウセスの妻となることもできず、ミノタウロスの声さえ聞こえない暗い迷宮で朽ちていったのだった。

Sunday, May 07, 2006

「オレンジだけが果物じゃない」 (memo)

 「最後にお母さんと会ったのは、いつなの?」ある人がわたしにそうたずねた。都市をその人と一緒に歩いていたときのことだ。わたしは言い淀んだ。この都市では過去は文字通りのものなのだとばかり思っていた。”過ぎ去った”もの。なぜ無理やり思い出させられるのだろう。古い世界でだって、過去を帳消しにしてしまえば、誰でも別の人間に生まれ変わることができた。どうして新しい世界でえは、こうも詮索好きなのだろう?

 「帰ろうと思ったことはないの?」
 愚かな問いだ。もと来た道を引き返すための糸もあれば、こちらを引き戻そうとたくらむ糸もある。糸は意のままに心を振り向かせ、それを振り返ることなどとてもできない。帰ることなら、わたしはいつだって考えている。後ろを振り返ったためにロトの妻は塩の柱に変えられた。柱はものを支えるし、塩には清めの力があるけれども、それと引き換えに自分を失うのでは、あまりに割りが合わなさすぎる。
 
 故郷に帰った人間は、けっして無傷ではいられない、なぜなら、二つの現実のあいだで引き裂かれるから。これは堪えがたいことだ。心を塩漬けにしてしまうか、心を殺すか、それとも、どちらか一方の現実を選びとるか。選ぶには痛みがつきまとう。世の中には、食べないケーキは取っておけると思っている人もいる。でも取っておいたケーキは腐り、それを食べれば命取りになる。久しぶりに帰った故郷は、きっとあなたを狂わせる。残された人々は、あなたが変わったと認めたがらない。昔とそっくり同じにあなたを扱い、他人行儀(indifferent)だとあなたを責める。あなたは変わった(different)だけなのに。

 「最後にお母さんにあったのは、いつ?」
 何と答えればいいいのだろう。思いははっきりしているのに、頭の中で言葉は水底から上がってくるように歪んでいる。水面にぽかりと浮かんだ言葉を聞き取るには、よほど神経を研ぎすまさなければいけない。銀行強盗が金庫を開けるのに、カチリというかすかな音に耳をそばたてるように。



 ジャネット・ウィンターソン「オレンジだけが果物じゃない」”ルツ記”より抜粋

Thursday, May 04, 2006

Un Deux Trois  (diary.gay.family)

 東京に遊びに来た母と、同居人の妹、それとNくん(1年くらい濃い付き合いをしている人)と僕との4人で、新宿で飲み。


 落語マニアの母に、末広亭(新宿3丁目にある落語劇場)の場所だけ見せたあと、モツ煮込みの店に入ったんだけど、母には立ち飲みは辛いらしく、一杯だけ飲んで出て、ほかのチェーン系の居酒屋の個室に移動して改めて飲み。

 円卓を囲んだ4人。3人は家族。1人は他人。身内の話題だけで盛り上がってもしょうがないし、ということを暗黙の了解で分かっていたので(素晴らしい)母は専らNくんに質問してた。あと僕の小さい頃の話とか。昔は女の子っぽかったと暴露された。魔女っ子になりたかったとか。今は野郎系をウリにしているつもりなのに・・・母親って恐い。

 酒が入ってきたのか、「二人はどんなふうに愛しあってるの?」って聞いてきた時は、さすがにびびった。好奇心が押さえられないという感じでした。答えなかったけどね。聞きたくないだろうし。


 
 母には数年前にカミングアウトしている。僕がカミングアウトしたきっかけは2つある。1つ目は、本当に偶然だと思うんだけど、妹の高校のころの友達がゲイで、妹が母に「身近にゲイの友達がいて、すごくイイ人」ということを話をしてて、母に下地を作っておいてくれこと。

 2つ目は姉が最初に連れてきた彼氏が年上の外人だったことで、「国籍と年令の壁を超えたから、性別にも耐性は出来ているだろう」と自分なりに判断したから。

 頭が柔らかくて、理解がある母なので、だからカミングアウトそのものも、それ以降もすんなり行って、僕も母も、家族も含めて、腹を割って話せる関係になった。

 僕のことを産んで、子どものころから見てきた人だけあって、ゲイですって言ったときに、「わかるよ。昔からそういう感じはしたもの。誰にも話せなくて辛かったね」と言ってくれた。

 それでも、やっぱり孫が見たい、という。ひょっとしたら女の子が好きになるかもしれないし、という。頭ではわかっていても、この欲望はどうしても捨てられないらしい。

 「無理だよ。男の子が好きな女の子が、女の子を好きになったりしないでしょ?僕は子どもは好きだけど、自分で産むなんて考えないし、女と結婚もしない。ゲイでそういうことする人もいるけど、それで幸せになれるのか僕は分からないし、したくないと思う。」


 「孫が見たい」って思うのは自然な感情とはわかる。でも、なんだか気持ち悪い。産むの産まないの、命はおもちゃじゃないんだよ。(とは言わなかったけど。これは、わざわざ言わなくてもいいことだ。)


 母は、父に「孫が見たい」ということを言うと、父は

 「お前、そんなことをいうのは間違ってる。子どもができない女の人に、子どもを作れっていうようなもんじゃないか。俺は(ゲイは)理解はできないけど、それは尊重すべきだ」と答えたと、母から聞いた。父がこんなこと言うなんて思わなかったので、正直びっくりした。

 母が、頭では理解し受け入れようとしていても、まだまだ葛藤があって、執着している部分もある。それを素直に出している感じがしてよかった。


 僕も複雑な気持ちだ。葛藤とは、愛情の形なのだと今はわかる。母からもらったものを数え上げたらきりがない。理解も葛藤も、執着も。たくさん形を変えた愛情が、僕を取り囲んでいて、それが大き過ぎてかなわないので、それに甘えると自分がダメになるんじゃないかと、ひねくれたことを考えたりする。


 母への呼び掛けで始まる、小谷美紗子の曲”Un Deux Trois”帰り道で思い出しながら、あの曲は、恋のうたではなく、1、2、3それから先もずっと一緒にと、お母さんの愛を歌っていることに改めて気がついた。あなたのような強さが、私のバイパスを走り出すまでは。
 
 お母さん、お母さん。あなたからもらった優しさを、僕は誰に渡せばいいんだろうね。恋人、友達、家族。そしてまだ会ったことのない友達。N君の手を握って、夜道を歩いて帰る。






 お母さん お母さんに教えてもらったことが
 いつも いつも私を助けてくれています
 こないだ元彼の悲しい仕打ちに会いました 
 仕返ししちゃおうと立ち上がったけど ひたすら耐えました
 許して許し抜く術を
 Un Deux Trois

 いま本当に 素敵な人が相談相手でいてくれています
 昨日その人に 大きな声で好きですと言えました
 好きですと言えました

 お母さん お母さんのにおいがここにもあります
 一人暮らしの部屋で ときどき甘えています
 こないだ 大切な人達に
 私なりのぎこちない手料理で喜んでもらえました
 おいしいと甘い声がこだまする 
 Un Deux Trois

 いま本当に 素敵な人が相談相手でいてくれています
 昨日その人に 大きな声で好きですと言えました
 好きですと言えました

 こないだ仕事場で 未来が煙に巻かれるような
 予感がわたしのことを覗いていました
 それでも故郷に逃げ帰らず
 Un Deux Trois 

 振り返らない
 あなたのような強さが私のバイパスを走り出すまでは
 どうかみんなの絆だけは守っておいて
 私が帰るまでは
 

 小谷美紗子「Un Deux Trois」