Friday, January 27, 2006

私はそれを見ようとする

 「人を愛するということは、お互いに見つめ合うのではなく、同じ方向を見ること」
 昨日買った小説の中に書いてありました。サンテグジュペリの、「人間の土地」という小説です。

 私がなにより怖いと思うのは、相手を見ているのに、相手の目に自分が写っていないことです。

 私たちの目は、向かい合った相手をそのまま写すには小さすぎます。すべてを見て知るには、あまりにも愚かすぎます。
 おそらく、機能的な問題、そして経験があるがゆえの問題だと思います。

 経験的に、ここに顔があって、目と口と鼻があるから、ヒトなんだと判断するだけで、ひょっとしたら大きな間違いを犯しているのかもしれません。子どもは小さいのではなく、遠近法的に遠いので小さく見えるだけに過ぎず、老人がしわくちゃでみすぼらしく見えるのも、世界が広がりすぎたために、その体で世界の歪みを受け入れているのかもしれないのです。

 あなたが見えない。
 遠い水平線を見ている。その向こうに、あなたが語る遠い国を想像する。遠く、美しい世界。真っ白な雪の世界。見渡す限りの砂漠。美しく燃える森。私とあなたはそこで手をつないでいる。
 やっとあなたが見えた。

 これは愚かな空想?いいえ。私には見えているのです。見たいものしか、私は見ることができないのです。
 私にあなたを見させてください。



 恋人に別れを告げました。

 地下鉄の改札口で、さっき私が返した合鍵を、あなたは差し出しました。初めて鍵を渡してくれたときよりも、もっとぎこちない動作でした。

 ーこれを、責任を持って処分してほしい。これがどういう意味か、わかるでしょう。

 私にはわからなかった。受け取るには、あまりにも重すぎると思いました。いらない。もう部屋に入らないし、もし空き巣に会ったときに、真っ先に私が疑われるのはごめんだと言いました。私は現実的なのです。目の前で踏みつけてねじ曲げると、鍵を投げつけて、電車に乗り込みました。ひどい役者だったと思います。残酷なことをしたという気持ちで心臓か早くなりました。

 目を合わせなかった。鍵を投げつけた最後の一瞬だけ。私の目にはあなたが写っていた?もし写っていなかったとしたら、いえそうだからこそ、逃げ出しました。

 明日の朝になったら、荷物が届きます。一人で梱包して、「届け先の住所」と「発送人の住所」同じ自分のものを書いてに発送した自分の荷物です。
 にわかに増えた荷物。あなたにとっては減った荷物。もとある場所に帰って来たものも、あたらしく購入したものもあります。梱包をとくとき、さて、これをどこにしまおうか、と考えるでしょう。私は現実的なのです。その分からっぽになったあなたの部屋で、あなたがどんな気持ちで空虚を見つめているかということと、一人で鼻歌(悔しいことに、マッキーと小谷美沙子でした)を歌いながら、あなたが帰ってこない部屋で事務的に梱包していた自分の姿は、できるだけ思い出さないようにします。感傷は敵です。選んだのは自分なのですから。

 今日は眠いから、また明日....荷物が、私の知らない運送会社の誰かの手で運ばれていることを想像しながら眠りにつきます。あの荷物は無事に届くでしょうか・・・・


 未来は私たちを愛しているでしょうか。お互いではなく、同じ方向を見て歩んで来た未来は。目指す光は。

Tuesday, January 24, 2006

本を枕に遠い夢を見る

「おおきく振りかぶって」を読んで、ひぐちアサにはまって、「ヤサシイワタシ」も「家族のそれから」も買った。

 まんだらけは古本屋のくせに品揃えがものすごい。
 恋人とずっと探してた「地獄戦士魔王」も見つけた。萩尾望都の「パルバラ異界」も買った。「尾玉なみえ短編集」はいまいちだった。

 友達から、たくさん本を貸してもらった。
 あいかわらず、マンガばっかり、本ばっかり読んでる。

 本を読んでいると、「黄色い本」のことを思い出す。
 読書が好きな中学生の女の子が、本の世界を空想して、やがてその世界から去って行く、という話。

 真剣に本を読んだからこそ、本の世界を生きて、今の生活とはまったく違った世界をかいま見る。
 読書は、空想の羽を広げで、世界を超越するのだ。

 この「黄色い本」が好きなのは、本好きならだれでもやっていることを、実際にマンガの世界で表現して見せたこと。

 僕は、僕たちは、黄色い本の中の少女のように、本の世界の登場人物に話しかけ、頼り切り、それゆえにしばし混乱し、現実を見失いもする。本を読み終えて、自分の生活と空想の本の世界に折り合いをつける。現実の世界で生きて行く。しかし、もう一度本を開けば、本の世界を旅することができる。それは、大きな力になる。いつでも新しい生き方を僕たちにもたらしてくれる。

 僕は、そんなに本が好きで好きで。
 一人で本の世界に浸ってるのがもったいないから、みんなと共有したいなあと思っている。
 そういう態度は、きっと本好きな人からしたら欲張りで、本が嫌いな人からしたら鬱陶しいんだろうな、と思う。
 そんな鬱陶しいオタクなので、僕の滑舌が悪くて、聞き取りづらいこととか、考えながらじゃないと喋れないことも、ある意味調子に乗る自分をセーブできているのかもしれない。
 その代わり、ネットで文字でやりとりするのは、僕の肌にあった。このネットの平べったい世界では、自分の言葉を相手に合わせるより、自分の言葉が通じる相手を捜す方が、何倍もやりやすい。 
 でも、それもどこかで、違うな、と思って来ている。あらかじめ限られた知識の中でやるのは、すっと簡単なんだ。
 
 僕が本当にやりたいことは、自分の言葉をわかってくれる人を捜すのではなく、自分の言葉を本当に必要としてくれている人のために語り、その人が本当に語るべき物語を聞きたい。この声で語って、この手で綴り、この耳で聞きたいと思う。

 あなたの物語を。遠い世界の果ての物語を。星の記憶を。

 吟遊詩人とまではいかないが、鬱陶しいオタクでも、いつかは、話し上手聞き上手のじいさんくらいにはなれるだろうか。

Wednesday, January 11, 2006

荒地を生き残れ 〜新年の抱負に代えて〜

 以前、オノ・ヨーコがインタビュ−で言ってた言葉、今でも好きでよく考えてる。オノヨーコさんのことはよく知らないけど。

 「ポジティブなことにエネルギーを注がなければ、この世界は生きて行けない」って。
 「生き残りたかったら、いいことを考えて実行しなさい」

 怒ったり、悲しんだり、憎んだり、そういうネガティブなことにエネルギーを使ってたら、
 狭くなったこの世界では、悪意はたちまち自分を軸にして燃え広がり、煙に巻かれてこの世界で窒息してしまう。

 心に風が吹かなくなって、悪意に飲まれたら、僕はもう一歩も歩けないで、そのまま地面にめ沈み込んでしまうような気がする。本当に実感としてそう思う。笑ってくれる家族や、恋人や、友達のおかげでこうして歩いて来れた。

 寂しいときは、種を植える人のことをずっと考えてる。手紙を書くひとのことをずっと考えてる。
 空の星のことをずっと考えてる。
 何年も何万年も何億光年も、遠く遠く離れた、まだ見ぬ光の存在を想う。
 それを見るのは誰だろう。それを見るのは誰だろう・・・・・・・
 ないけれども、それは確かにある。
 見てくれるだれかがいる。いまは見えなくても、光を放つものがある。


 後悔したり、憎むには、あまりにも時間はない。
 感謝は足りてるか。誠実であるか。本当に自分はそれをやりたいのか。後悔はしないか。
 絶えず自分自身に問いかけていきたい。

 

Sunday, January 08, 2006

 最後の物たちの国で(book)


 社会システムが崩壊した国、あらゆる物が失われ、略奪や殺人すらも犯罪ではなくなった国。死はあたりまえの出来事であり、子供はもう生まれない。そこでは言葉も、感情も、記憶も存在までも失われていく。

 その国に兄を捜しにきた主人公のアンナの、故郷の自分をよく知る大切な人に向けてあてた語られる手記という形をとって、この物語は語られる。

 アンナは、生き残るために兄を探すという望みを捨て、感情を捨て、希望を捨てる。しかし、人との出会いを通して、希望を語ることを見つける。

 作者は、この話を「どこかの国の話」だという。訳者はこれを「現代の寓話」だと評する。けれどもとても寓話に思えない。ひょっとしたら隣の国、それとも自分の国の近い未来かもしれない。

 全編をとおして、救いようがないくらい暗いのだが、不思議と希望を感じる。

 希望を語ることを「幽霊の言語」だとし拒絶していたアンナが、死にゆく友が書き記した単語を見て失ったものの大きさに気付き、語ろうとするくだりが本当に好きだ。静かな余韻を残すラストもすごくいい。物語の力を感じる。

Tuesday, January 03, 2006

正月三が日



 夕方から初詣に行こうと家を出て、明治神宮まで、ハチ公バスに乗る。
 渋谷界隈(笹塚〜原宿あたり)をぐるぐる巡回しているコミュニティバスで、100円で乗れる。初めて乗った。定員は10人くらい。座席が向かい合っている。そのまま乗ってると、どんどん入り組んだところに入って行って、見慣れた街もこうしてバスに乗ってみるとちょっとおもしろい。でも、遠回りだったので、結局歩いた方が早かったみたいだ。

 明治神宮につくと、ちょうど閉門のアナウンスがあってたので急いで入る。閉門時間だというのに人が多かったから、昼間だったらきっともっといたんだろうな。もうすっかり陽も落ちて、明治神宮の、森のあたりの暗い感じは格別だった。

 後厄だし、いろいろ願い事もあるしなあ、と思って丁寧に封筒にまで包んでお賽銭を奮発し、願い事をした。
 ちゃっかりかわいい神主さんの前に並んで、おみくじを引いた。
 おみくじが、「大御心」とかいうありがたいお言葉で、孝が説いてあった。「たらちねの親につかへてまめなるが人のまことの始めなりけり」大吉とか凶とか期待してたので、ちょっとがっかりしながらも、親は大事にしなきゃね、と思ってこのおみくじは取っておくことにした。

 また森を通って行って原宿から帰ろうか、参宮橋のほうに出ようか分かれ道で迷ってるところで、ふと財布がないことに気がついた。
神様・・・・・こんな私からまだ奪うと・・・・私はまだ与え足りないとおっしゃるのですね?賽銭を奮発した私に。 
 
 でも、さっきおみくじかったところに行くと、あっさりと見つかった。もう本殿となりの拾得物所に引き渡したので、そちらで手続きを行ってくださいとのこと。
 ちょうど警官が僕の財布を開いて中を改めていた。ヤバいもの入れてなくて、ほんとによかった。書類に記入して、引き渡してもらう。拾得者にお礼をする義務がある、が、拾得者は「不明」になっていた。ちゃんとお礼したかったな。
 思うに、「お賽銭奮発した」っていう傲慢な心があったから、そういう心を改めろってことなのかも。謙虚さを持たなきゃなー
 
 そのまま銭湯まで歩いて行って、さまざまな理由から(ゲイが多いから)行かない銭湯に行き、恋人と二人でのんびり浸かる。いい湯だった。マンガ読んで、歩いて帰る。