Wednesday, March 29, 2006

花を見つける

 熊本に帰っていた。

 沈丁花の匂いがした。実をいうと、沈丁花というものの存在を知ったのは最近だ。沈丁花は、家の前の曲がり角で咲いていて、甘い匂いを漂わせていた。こんなところに咲いていたなんて知らなかった。でも、確かにずっと咲いていたのだ。小学生の時も、僕が生まれる前からずっと。

 本当に僕は沈丁花を知らなかったんだろうか?
 この匂いを知らなかった?
 小さくて薄紫の花も知らなかった?
 知らなかった。見ていなかったから、無いも同然だったのだ。

 雀の宿り木になってる木蓮の木は、もう花を落としていた。あの木には物語がある。雀が冬のあいだはあの木にずっととまっていて、まるで雀が生っているみたいに見えるのだ。しかし春になって花がさくと、雀はいつのまにかどこかに飛んで行ってしまう。一匹さえもとまっていない。

 雀は木が寂しいから花が咲くまでとまっていたのか。それとも、ただ単にねぐらにしていて、花に居場所を取られたから去ったのか?それにしても、あっさり鳥は飛んで行ってしまった。そして花は落ちる。でも、それは寂しいとか犠牲とかじゃなくて、もっと僕の知らない「何か」があるような気がする。なんとなく、これが愛と呼んでいいものだろうと思う。


 熊本では、ゆっくり過ごせた。墓参りに行った。犬と遊んだり、ゆっくり寝て、母親の料理食って、兄と父と酒飲んで温泉入って、本呼んだり、落語のビデオ見た。神社も行った。

 桜。本日20日。開花宣言しました。例年よりも数日早い開花です。

 阿蘇にも行った。野焼きの山は 真っ黒く焦げていた。あと3週間もすれば、この山は緑で覆われて、いちばん美しい季節になる。やがてツツジが咲くだろう。

 記憶の中では、花は枯れること無く、ずっと咲いている。僕は何度も何度もその記憶の花を見ている。
 すこし年を取ると、花も一つずつ増えて行く。花を抱えていられる。
 「別れる男に花の名前をひとつ教えておきなさい。花は必ず毎年咲きます」って、川端康成は本当にいいこと言ったもんだ。

 子どものころ、両親が阿蘇に来て「自然はすばらしいね」と感嘆して漏らす言葉が理解できなかった。両親は阿蘇出身で、生まれたころから阿蘇は見ているはずなのだ。けれども、いまわかった。両親はやっと阿蘇を見つけたのだ。
 
 美しいものに気づくために、どれだけ遠回りをしなくちゃいけないんだろう。でも、それは希望だ。「年を重ねる」ということ。
  
 思い焦がれれば焦がれるほど手に入らない、彼岸の花のように、僕は家族を愛しているのだが、近くにいればいるほど、それが見えなくなって、わからなくなるだろうということを知ってる。

 
 もう僕はここでは暮らせない。東京での生活を選んだ。僕の中で家族を見つけるまでは、家族なんていないも同然だったのだ。やっと見つけた。うれしくて悲しくてたまらない。


 花はいまでも咲いてます。ずっとずっと咲いています。いつかあなたにも見せてあげたい。木蓮の花。沈丁花。仙酔峡のミヤマキリシマ。阿蘇の緑。ユキヤナギ。杉山。
 これがすべて。僕と、僕を作った世界と、僕が関わる世界。そして発見した愛を、あなたにも見てもらいたい。

Wednesday, March 22, 2006

写真展「エスキモーとアリュートの肖像」 book「猫の時間割」

風の旅人ブログ風の旅人で紹介されていた、
八木清作品展、「エスキモーとアリュートの肖像」を見に行く。

 よくは知らないんだけど、プラチナプリントというもので、プリントされた写真特有の、テカテカして光が反射した感じがなくて、なんていったらいいんだろう。静謐な空間。演出で作られたものではない、いのちの輝きそのものを見た気がして、しばらくずっと眺めていた。いいものを見た、と思った。

 この写真がすごく欲しくなって、でも高かった。写真集ないのかなー。風の旅人ももう一回見直してみよう。

 帰って来てから、また風の旅人のブログを見て、こういう感じ方や見方があるのか、と思い、あらためていい写真だった、と思った。
 言語化できることは全ていい、とは思わないけど、言葉になって初めて気がつくものがある。

 風の旅人の人の言葉はすごいなと思う。とっつきにくい感じはするけど、論理的な感じが好きだ。審美眼とか信念が、しっかり見える。こういう言葉使いに憧れる。

 その写真展がやってたギャラリーで売っていた、「猫の時間割」写真・文 前田義昭(自費出版)を買う。
 猫がいる風景を撮った白黒の写真。写真の猫がすごくかわいくて、猫好きの自分は悶絶する。猫の時間割にそってつくられた本の構成もおもしろい。枕元にずーと置いておきたい本。
 

Tuesday, March 14, 2006

うそつき村の弁証法

 「つきあう人を選べ」とか、「人のいうことをきにするな」と言われて、そのたびに、あれ、僕、そんなふうに思われてるんだ、と思ってちょっと考え込んじゃう。

 そんなつまんない人間関係を浪費してるように見られてるのか、そもそもその言葉自体がいじわるなのか。

 あんまりよくわかんないんだけど、そういうこと言われるのって、いいことなのか、わるいことなのか。どっちを信用したらいいんだろう。


『うそつき村の話』
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 嘘つき村の村長さんがこう僕にいいました。「この村のもんは全員嘘つきじゃ!」

 んじゃ村長さん。あんたも嘘つき?

 この言葉通りだったら村長さんも嘘つきだから、嘘ってことは嘘で全員正直者になるよなー????

 村長さんが正直者だったら、この命題は成立しないよなー??????
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 この命題(うそつき村)が成立するには、その村の者以外が、嘘つき村を証明しなくてはいけない、という必要条件があるんだけど、

「人のいうことを気にするな」っていう言葉の「人」の中に、その言葉を言ったひと自身は入ってるよね。
 
 んじゃ、気にしなくていいのかなあ。
 

 
 と、まわりくどく考えたこと。


 ●1 「人のいうこと気にするな」と言った人には悪気はない。おそらく、(他人に振り回されてるように)思われたのだ。(正)

 ●2 しかし、「人のいうこと気にするな」が真実なら、この言葉も気にしなくてよい。(反)

 ●3 人のいうことを鵜呑みにせず、それは忠告として受け止め、かといって必要以上に「気にしない」ことにする(止揚)


 そもそも、僕が人を選ぶに値する人間であるならね・・・・・・・

Tuesday, March 07, 2006

花を飾ろう

 仕事帰りに、駅前の花屋で花を買って来た。
 白くて小さくてかわいい花が、枝にいっぱいついているもの。こういう花がほしかった。
 それと、桜色と夕焼けみたいな色のキクのような花が、ひとつの包みに入っている。これ、名前きいてくればよかった。
 店員さんが新聞紙にくるんでくれて、うれしくてにやにやしながら家に帰った。
 花瓶がいるな。部屋片付けなきゃ。とりあえず、ペットボトルの中に入れた。
 同居人(妹)は今日から出かけてていない。帰ってくるまでもつだろうか。

 だれかに花を贈りたい。一緒にきれいだねって言いたい。
 どうか、忘れられて、ベランダで枯らしてくれませんよう。
 枯れるまで見届けて、やっぱり捨てられなくて、それでも捨ててしまって。また買ってくるから。

花泥棒

 夜中にふと家を出て、コンビニに寄り、缶ビールを買って行く宛も無く、ふらふらと深夜の住宅街を徘徊する。
 終電にはまだ早い時間だが、このあたりは夜がほんとうに静かだ。人通りもなく、家の明かりも消えている。闇がしみ込んでいる。でもそれは不安ではなく、不思議な安心感がある。どこにもいかなくてもいい。いま、世界に取り残されている。

 ふと、花が欲しいと思った。きれいで小さな花。花が欲しい花が欲しい。こんなになにかを欲しい純粋に思ったのは、久しぶりだった。小さくて、いいにおいがする。優しく僕の手の中でうずくまって、夜にも消えない、明るい色を見せて。 
 花があれば、すべてをふっとばしてくれる。そんな気がしてたまらない。6畳一間の僕の部屋のテーブルの上に挿した一輪の花が、その自身の完璧さで調和している。そんなことを思い浮かべて興奮する。白い花か、小さな花。ちっぽけでも、そこにいると思わせてくれるような花。
 
 けれど夜の町を歩き回っても、花なんて咲いていなかった。花泥棒は未遂に終わった。軒下で、くすんだ重たい色の花を見つけたが、あまりに熟れすぎていたのでやめた。
 

Monday, March 06, 2006

3月5日

 仕事で、客に対応させてもらえなかったり夜勤に回されたりと、主要業務から外されていて、ああ、そういや僕もう会社やめるんだ。と実感した。なんか腹が立つ感じもする。でもそれはだめなんだよな。やめちゃうひとがそんなこと思ったら。もう愚痴いう資格もないんだ。かかわれないということがもどかしい。

 寂しい?寂しい。寂しいんだろうな。こういうかんじ。

 元恋人の悪口が言えない。
 別れた男の悪口をいうのは人間のくずだと思うし、実際いう資格なんて僕にはまったくない。
 でも、付き合ってるときは、冗談みたいに友達に言えた。なんとなくあの好き勝手に愚痴って、ガス抜きをして少し冷静になって、また恋人と一緒に過ごせた時間が懐かしい。

 悪口が言いたい。
 自分の中にルールがあって、辞める仕事と、別れた男と、友達の友達の悪口は、言っちゃいけないことにしている。
 だって、それにはもう自分が関われないから。自分の言葉に責任をもてない。なに安全な位置で好き勝手言ってるんだよ、と思う。


 ああ、僕hqかかわりたいんだ。

Wednesday, March 01, 2006

「四月の痛み」「夢見つつ深く植えよ」(book)

 友達に薦められた「四月の痛み」(著:フランク・ターナー・ホロン 訳:金原瑞人)を読む。

 老人ホームに住む86才の元弁護士を主人公に、人生の終わりに死と老いと人生の成熟について書かれた作品とのこと。著者がこの作品を書いたときは、26才だったらしい。

 読んではみたが、あまり共感できなかった、というのが正直な感想。いい意味で期待はずれ。老人ホームの話というよりかは、主人公の自意識という感じが強い。ヤングアダルト小説のひとつだと思う。

 何が書かれていないかというこが、物語で大切だ。この話は老人ホームなのに、あまり介護のことは出てこない。家族に関しても出てこない。主人公は、「飯をどうかむかもわからなくなったような」「向こう側のテーブルに座って食事したくない」とだけ思う。
 夜中に部屋を抜け出したり、釣りをしたり、ラストシーンの球場のシーンも含めて、まったく「ライ麦畑」みたいだ。


 認知症の介護の仕事をしていて思うことは、
 介護者と被介護者との関わりに物語が欲しい、ということだ。神話と言い換えても言い。
 認識してもらえない、ということは、本当につらい。
 どんどん悪くなる。そして遅かれ早かれ死ぬ。

 けれども、実際の仕事を通して、肌のふれあいや、体温を感じて、声をかける。
 そのことで、ほんのちょっぴりだけでも、人間が生まれたときからずーっと続いているバトンのようなものを、老人に渡して、僕も渡してもらって、高いところへ行けたら良いな、と思う。