Friday, July 21, 2006

食べる

 もう結構前になるんだけど、 NHKの「知るを楽しむ」で辰巳 芳子さんの特集がやっていた。
 いのちスープ、おいしいスープを作ってお年寄りに配ったり、すんごくうまそうな生ハムを作ったりしている人、というくらいしかしらなかったんだけど、実際に番組を見てて、食べることは命を育むことなんだなあ、と思った。おいしいものたべたら元気になるし。
 
 その中で、多分最終回だったと思うけど、「いつかは自分のためだけに料理を作るときがくる」ということを言っていた。家族のため、恋人のため、だれか大切な人。そういう人のためにご飯をつくる。でも、いづれは一人になる。そのとき、たった一人で料理をこしらえて、一人で食べて、あーうまかった。今日も感謝!って言えること。いのちを食べて、いのちを育むことを、感謝する・・・という内容だったと思う。

 僕はわりと一人でも料理をする。あるていどの献立はすぐ思い浮かぶ。ぱくぱくもぐもぐ。米野菜コンビニ弁当パン果物総菜ジャンクフード・・・・・やっぱり一番好きなのは、野菜中心の和食。いのちを食べる。大地を食べる。海を食べる。添加物も食べる。ぱくぱくもぐもぐもぐ・・・・・

 家族や恋人、友人と一緒にご飯を食べるときの、共有感は何ものにも代え難い。でも仕事してるときは、職場の人間とは飯を喰いたくなかった。学校でもそうだったな。誰かと食べる。一人で食べる。ぱくぱく。

 食べることは育てること。自分のいのちが生命のサイクルの中にあるという実感。はいってくるいのち。味わういのち。味

 もう自分の力でご飯が食べれなくなり、僕はその口にスプーンで運んだ。その感触をいまでも覚えている。
 
 僕はいつまでご飯を食べるんだろう? 死ぬまで。せめて、おいしかった!ごちそうさま!といつも感謝していよう。今日もいただきます。

Tuesday, July 04, 2006

人の顔

 友人に招かれて、友人の家で飯を喰べた。僕の知ってる人が何人かいた。友人が最近仲良くなった人らしい、初対面の人も一人いた。
 その人が、数ヶ月前の友人の写真を見て、「この写真のお前は、目が死んでる」と言った。そんなこと僕は気がつかなかった。その写真は何回も見てるし、友人とはそれなりに長い付き合いだと思ってたのに。「このころは辛くてね」と友人は初めて漏らした。
 友人はいつも笑顔で写真に写っている。友人にも辛いことがあったのに。
 友人の、自分の辛さを人前に出さない強さに対する驚きと、僕はそれを汲むことができずにいたと後悔と、それに気がつくことができた初対面の人に対する羨望を同時に感じた。

 僕は最近、会う人に顔が変わったと言われる。はてどうだろうと鏡を覗き込む。

 君の方が顔が変わったよと言う。そんなことない、と君はいう。自分の顔のことはなかなか気がつかないらしい。僕としては、僕がこの街で初めて君に出会った時に比べて、君はあきらかに顔が変わったと思うのだ。優しさも辛さも同じだけ均衡を保っている、というか。なんというか、ここで生きる男の顔。ほどよくおとなびた、僕が好きな顔だ。
 
 さて僕の顔はというと、たしかに変わったと思う。でもどうだろう。君の目に僕はどう変わったのだろうか。
 頬骨が上がったとか、あごが引っ込んだ、とか、目が腫れぼったくなったとか、日に焼けたとか、そういうひとつひとつ言葉にして確認できる変化なのだろうか。それとも関係が変わったからかもしれないし、変わったのは僕ではなくて君のほうかも知れない。

 自分の所有物なのに、自分では確認することができない。鏡を見てもそれが「人に見せる顔」とは限らない。相手が見る顔。自分がそう思う顔。自分が作る顔。顔って何だろう。いつ、どこで君は顔を曇らせた?君はいつ顔が変わった?僕の顔はいつのまにかこうなった?僕はそれに気がついた? 

 遺伝だろうか?
 鏡の中には、25才の坊主ヒゲ面の、ゆるんだいつもの顔の僕がこっちを見てるのだが、このあか抜けない狸顔の中に いま50才の父親の面影も、僕を生んだ25才の父親の姿まだ見ることもできず途方にくれてしまう。この鏡の中の顔は幼い。人生を豊かにたたえた父、あなたの25才の顔より幼い。これから先、子どもを作らないであろう自分は、父に追いつけない、子どもの顔でこのまま年を取るのだろうか。そして父親にどんな顔を見せるのだろう。


 ちゃんと人と向き合おうと思う。人と積極的に関わりたい。そしてちゃんと顔を見る。どんな目をしているのか。どんな肌で、その唇はどんなふうに動くのか、何を語ろうとしているのか、ということ。そして、できれば良い顔で生きていけるよう。笑ったり、泣いたり怒ったして、顔がどう変わっていくのか、覚えていたい。